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ブログ・堀割日誌
新潟の堀割

堀割の情景

江戸時代の初め、新潟は全国に再編成された、典型的な湊町のひとつでした。回船に載って、たくさんの人や物が集まり、湊は賑わいを見せました。

町の中には堀が設けられ、回船から荷物を積み換えた小船が行き交いました。堀は、湊町新潟の基礎であり、自由な商いを行うための重要な役割を果たしていたのです」

明治になると、町の拡大に伴って、堀は縦横無尽に張り巡らされました。米を運ぶための堀。あるいは近郊でとれた野菜や魚を運ぶための堀。この頃が一番、堀が広がっていました。

四つ橋の盆踊り

片原堀(かたはらぼり)のちの東堀と交差する新堀との四つ橋の上では、下駄をふみならして盆踊りが行なわれました。

白山堀(はくさんぼり)、すなわち、一番堀には白山神社の参道に通じる太鼓の形の白山橋があり、情緒をかもし出していました。

明治11年に新潟を訪れた、イギリス人旅行作家のイザベラ・バードは、著書『日本奥地紀行』の中で、新潟をこのように表現しています。『すべてが舟で運ばれている。・・・運河は新潟の非常に魅力のある特色となっている』

新潟は、幕末の志士や文人墨客からも慕われ、たくさんの交流を生み育んだ町でした。新潟を訪れた歌人の多くは、堀と柳の情景を詠い残しています。

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堀と町の人々

一番堀と太鼓橋
一番堀と白山橋(鳥居は白山公園)

堀は新潟の生活に密接でした。大正時代に生まれ、幼い日を新潟で過ごした三芳悌吉(みよしていきち)の著書『砂丘物語』には、その頃の新潟の暮らしがまざまざと描かれています。

堀に入って蟹採りに興じる子供たち、野菜や鍋釜を洗うおかみさんたち、堀端には井戸があり、水汲みは毎日の日課でした。

食料の乏しい戦時中には、上流から流れてくるこのお供え物を、下流側の子供たちは拾って食べたものでした。

新堀から広小路堀の間には料亭が軒を連ねています。堀端の柳や桜の下を、新潟美人がお座敷に通う姿は、多くの男性を魅了しました。

堀は花柳界と共にありました。酔った勢いで堀に落ちたり、大事な給料袋を堀に落としたりということも、ご愛嬌でしょうか?

新潟の町から出た便は、肥やし舟で郊外へ運ばれ、貴重な肥料として田や畑に還元されました。

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時代の流れ

かつての西堀
かつての西堀

しかし、大正11年の大河津分水の通水で、信濃川の水位が低下。天然ガスの採取による地盤沈下もあり、堀の水はよどんでいきました。

『汚い、くさい、危ない』次第に、堀は市民から忌み嫌われるようになります。

時代は高度成長期 を 迎え、道路が必要になりました。そして、昭和39年、新潟国体の開催を前に、堀はすべて埋め立てられることになりました。その時代の経済活動や交通の変化によって、堀られ、あるいは埋められ改良されてきた堀ですが、もはや、埋め立てに異論を挟む市民は少なく、およそ350年の堀の歴史にピリオドが打たれたのです。

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堀割の再生へ向けて

平成12年、商店街の活性化を模索する 新潟市 古町の商店主たちが、堀の再生を訴え始めました。やがて、街づくりの活動をするグループや、地域 住民、新潟の歴史にを興味待つ市民、行政などが加わり、 市民への啓発を中心とする活動が始まりました。 堀割再生物語プロジェクト実行委員会です。

堀のあった通りを選んでまち歩きをおこない、感想を語り合ためのワークショップを開催しました。

早川堀(復元模型)
早川堀(復元模型)

堀があった頃を覚えている方々から、当時のなつかしい堀の思い出を聞きました。

河川や交通の専門家や学識経験者、行政関係者、他のまちで堀を守り、まちづくりを成功させた方など、様々な立場の方を招き、意見を交換しました。

次の時代を担う小中学生と一緒に堀について話し合いました。

近江八幡市 や 金沢市 など、堀が景観に活かされている町を 視察してきました。

古き良き新潟を思い起こすため、三芳悌吉さんの『砂丘物語』の原画展を開催、さらにイベントで人力車の運行を行いました。

堀割まち歩き(2005年7月)
堀割まち歩き(2005年7月)

まち歩きや聞き取り調査で得られた貴重な情報は『堀割再生物語絵図』として多くの市民や来港されたお客さまに配布しています。

2005年には、さらに活動を広め、将来造られる堀を掃除したり管理したりする責任ある団体として NPO法人化を果たしました。

このような美しい風景が新潟の本来の姿だと思います。水の都復興のため、100年 かけても新潟の堀を再生していきます。


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